百里基地うちの<A HREF=" http://blog.goo.ne.jp/suzuki-31/">日刊「NOCUSる」</A>から転載 うちの女房の祖父は、戦前、この地で4haの畑を開墾して農業をやっていた。 農業機械などない時代だから、そうとうな働き者だったんだっぺと思う。 あるとき突然、飛行場をつくるから、1週間以内で土地を明け渡すようにと軍からの命令があった。 当時、軍の命令は天皇陛下の命令だから否応なしに従うしかなかった。 そうはいっても、馬などの家畜はいたし、道具や収穫物などもあったわけで、いきなり出ていけるはずもない。知人の家に住まわせてもらいながら片づけをした。 ところが軍は、猶予はならないと家屋にダイナマイトを仕掛けて爆破、撤去。 そこに海軍の飛行場がつくられた。 終戦になって、土地が農民に手に戻った。 私も満州から生命からがら引き上げてきて、この地に開拓に入った。 ところが、わずか10年ほどで、今度は自衛隊が基地をつくるといってきた。 当時、土方で働いて日給が200円くらい。その時代に1戸あたり300万円もの金が積まれた。いまで言えば億の金か。 みんな出ていった。そして、いま目の前にひろがる基地がつくられてしまった。 それでも数戸だが、“戦争のために土地は売らない”と、金になびかない農家もあった。 私も、農業で踏ん張り通してきた。 これからも皆さんと力を合わせて頑張っていきたい。
南京陥落の提灯行列、 一九三七年当時、すでに多くの兵士が招集され、兵として中国大陸へ送られていた。 南京陥落の際には、残された家族は、これで戦争は終わらねばならぬ、終わってもらわねばならぬと、心のなかで願いながら、提灯を振った。提灯を振っていた多くの人たちは、南京で行われたことを知らなかったし、侵略戦争という戦争の性格も知らなかった。その期待は、まとはずれであったから、もちろん期待通りにはならず、日本軍と日本政府は日中戦争を拡大し続け、中国と日本、更には東南アジアの多くの民衆の命を奪うという犠牲を払い、日本の敗戦でやっと終わった。
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【2006/11/25 12:38】
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【2006/12/24 18:36】
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【2007/11/01 20:46】
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【2009/04/28 05:56】
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